友呂岐神社

友呂岐神社由緒

 友呂岐は鞆呂岐とも書き、この地域は古代から皇室の荘園でした。主祭神の応神天皇(3〜4世紀)は、八幡大神(はちまんおおかみ)様として親しまれ全国各地にお祭りされており、当社も明治43年までは「八幡神社」と称しました。
 応神天皇は別名、大鞆和氣命(おおともわけのみこと)・誉田別尊(ほむたわけのみこと)と申し上げ、生れたときに御腕に弓具の「鞆」(とも・ほむた)のような筋肉が備わっていた事に由来し、「トモ・ホムタ」の音に「鞆・誉田」の字をあてたものといわれています。「鞆」とは弓射の際に左手首内側につける皮製の武具であり、この誕生譚は母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあった証とされ「胎中天皇」とも称されました。
 現在でも地鎮祭などの神事において、「神籬」(ひもろぎ)と称して大きな榊を神様の【天下る依り代】として祭壇に立てて執り行いますが、「ひもろぎ」は「霊籠木」(ひこもるき)から転じた言葉とされ、応神天皇を称える「とも」と神の天下る意の「ひもろぎ」を合わせた「ともろぎ」の語源が偲ばれます。
 当社鎮座地は、皇室の別荘の営まれたところで御所山とも呼ばれました。
 この地域は応神天皇の皇子仁徳天皇が茨田の屯倉を置かれ、淀川の茨田堤築造に貢献されました。また菅原道真公左遷の時の通路にも当り公を祀る神社が多く、公を祀った近隣の元の若山神社(三井地区)・二本松神社(田井地区)そして現存する太間天満宮(太間地区)の各神社を明治43年より合祀しており、この時にこの地域の地名をとって友呂岐神社と改称し現在に至っています。
 太間地区の太間天満宮は、合祀後も社殿は残され境外摂社として現在もお祀りされており、御祭神は菅原道真公と茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)です。茨田連衫子は、上記の仁徳天皇の御代、淀川の洪水を防ぐために造られた茨田堤の人柱伝承に由来します。
 以上の変遷を経て、本殿には誉田別命(第15代応神天皇、厄除・安産の八幡大神)・菅原道真公(学問の天神)・茨田連衫子(建築土木の守護神)の三柱、また境内の成願稲荷社に稲荷大神、参道の中ほどに布袋尊(福神)、巳様(水神)が鎮座しております。